読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

一日一冊、本を食う

長年の積ん読本を読み切るブログ

【024】フジ子・ヘミング『フジ子・ヘミング―魂のピアニスト』2000年

間違えたっていいじゃない。
機械じゃないんだから。
(扉)


つらい気持ちのままで、音楽を続けるしかなかった。気持ちを切り替えるなんて、すぐになんてできやしない。スイッチを押せば、パッと気持ちが変わるなんて、人間は機械じゃないのだから。(p.52)

二年前の母の死
一九九三年、わたしはその頃、フランスに住んでいて、日々、ピアノを教えて生計を立てていた。(p.9)


そのあと、電話が鳴った。出てみると、「母が死んだ」、という知らせだった。そして、まもなく、テーブルの子ガラスも息絶えたーー。


日本に帰ったのは、それから二年後。
住み慣れたドイツを出ていくときは、うしろ髪を引かれる思いがした。(p.11)

そう、いつだって、わたしは手探りで人生を渡ってきた。計算なんかしなかった。できはしなかったーー。(p.12)

わたしの父は、ロシア系スウェーデン人の建築家、ジョスタ・ゲオルギ・ヘミング。
ベルリンの大きな映画会社で広告のデザインをしていた。
マレーネ・デートリッヒが主演した『上海特急』のポスターは、今でも使われているけれど、父が描いたものだ。(p.15)

父は貴族の生まれだった。わたしのおじいさん、つまり父の父親は、ストックホルムの官邸付きの弁護士で、わたしの父は貴族学校で教育されたのだけど、うわべを飾る類の人種であって、相当のエゴイストだったらしい。多分、マダムバタフライの夫、ピンカートンと似ているような、常に新しいものにふらふらしている、責任感のない若者だったのだろう。(p.18)

母はピアニスト。
大阪市の中心部中津
母の父親
日本で最初の印刷用のインキを明治時代に発明した人
母は、東京音楽学校(後の東京芸術大学)のピアノ科に学んだ。あの滝廉太郎が作曲科の先生だった。(p.18)

そんな両親のもとで生まれた。ヒトラーが政権を掌握する前の、ベルリン。わたしが五歳のとき、一家は日本に帰ってきた。(p.20)

父が出ていったのはいつだったろう。
わたしが五歳の頃だったと思うから、いくらも日本にいなかったことになる。(p.22)

母は、父なんか当てにせず、女手ひとつで、わたしと三歳年下の弟を育てた。(p.25)

わたしには、音の記憶よりも、不思議に視覚の記憶が多い。画家でデザイナーだった父の血が、わたしにもあるからだと思う。(p.23)


夢を見ているときが一番楽しかった。きっと父に似たのだろう。
外をひとりでぶらぶらと歩いているうちに迷子になったことが何度もあったらしい。
目に映るすべてが、たぶん珍しかったんだと思うし、頭の中は空想でいっぱいだったから、気がついたら今いるところがどこだかわからなくなっていたのだ。何度も道に迷って、自分の中の「不思議の国」へ行って帰ってくる。それはモノがない時代のわたしの楽しい遊びだったのだ。(p.26)

父がいなくなってからの住まいになった渋谷
わたしは、朝から晩まで、ひとりで庭の土を掘ったり、埋めたりばかりして遊んでいた。
そうしたら、母が怒鳴って言うのだ。
「そんなに土をいじるのが好きなら、おまえは百姓になるか!」
わたしは何で百姓がいけないのか首を傾げた。
土の匂い、それを手で触ると、何ともいえない安心感が、からだの中にじわっと拡がり、わたしはそれがとても好きだった。
花も好きだし、今も土いじりは大好き。
色とりどりの花が、それぞれの色をもって大地から生まれてくるなんて本当に不思議だった。(p.26f.)

ピアノを弾き始めたのはいつからだろう。
五歳ぐらいの頃だったと母は言っていた。いたずらにピアノを鳴らしながらも、母はそこに何かを感じ取ったのだと思う。六歳から母の手ほどきでピアノのレッスンが始まった。スパルタ式だった。一回に二時間、それが日に二、三回もある厳しいレッスン。そして、よく聴音の訓練をさせられた。(p.27)
外で遊びたいのに、「弾きなさい! 弾きなさい!」だ。
嫌で嫌で、トイレに逃げ込んだこともある。そうして、着ていた着物を引き裂いて、大声でワァーワァー泣きながら、抵抗したこともあった。(p.28)

普通の小学校へ行くと苛められると困るという理由で、母の実家が学費を出してくれて、わたしは青山学院へ通うことになった。


恥ずかしい、けれど羨ましい顔はしない。ひとり離れて辛抱した。(p.31)

目黒にある彼の自宅
彼はわたしの目の前で、葉巻タバコをくわえたままでピアノを弾き始めた。
わたしは、その格好いい姿に、すっかり感激してしまった。(p.34)
彼はわたしがうまく弾くことができたときは手放しで褒めてくれたけれど、下手に弾くともうツンとして握手もしてくれない。(p.37)

  • 1952年2月4日、門下生で東京芸術大学ピアノ科講師の織本豊子と結婚、五反田に居を移す。
  • 1953年10月28日、青山学院講堂でのリサイタル中に心筋梗塞を起こし、2日後の30日午後6時30分、狭心症により死去。
レオニード・クロイツァー - Wikipedia

気持ちの張りを失うように、クロイツァーのレッスンからも離れていく。
クロイツァーが日本人女性と結婚したのを機に、わたしはクロイツァーのもとを去った。(p.48)

クロイツァーの危篤の知らせ
亡くなるその日、わたしがピアノを弾いていると、ふいに開かないはずの戸がパタッと開いたかと思うと、バタンと急に閉まる音が聞こえた。
何だろう?
でも、それは知らせだったのだ。
その頃、よく弾いていたラヴェルのソナタの本にはこう書いてある。
「昨日、クロイツァーが亡くなった」
最後のほうでは、うまく彼と付き合えなかったけれど、わたしにとっては、彼はいつまでも一流のピアニストのままだ。(p.49)

疎開先の岡山の村
遠くのほうから何やら声が聞こえてくる。じっと耳をすますと、誰かが歌を歌っているということがわかる。それも大勢で、歌は次第に大きくなっていく。
「オーソーレ、ミーヨ〜」
何ともいえない、あったかい歌声。
「あれは外国の歌なのよ」、母が言う。
戦時中、それも外人排斥の時代に、外国の歌を日本の兵隊さんが大勢で合唱して村に帰ってくる。わたしはうれしくなった。どこの国だろうと、人のこころに届く歌に国境はないのだ。(p.39)

終戦後
『風と共に去りぬ』を初めて読んで感激したのもその頃。(p.40f.)

大久保康雄・竹内道之助訳[5]『風と共に去りぬ』三笠書房、1937年 / 新潮文庫、全5巻、1977年 / 新潮文庫、改版、2004年

風と共に去りぬ - Wikipedia

三鷹台の吉野おばさん(p.41)
彼女は日本画家・中村丘陵の弟子で、京都のお寺に絵が今でも並べて飾ってある立派な女流画家だった。(p.42)

わたしはよく絵も描いていた。人を驚かそうと思って、毎日、毎日絵を描いた。ただの人形を描くんじゃなくて、その日あった事実を絵の具できれいに描いていた。
小説を書いたこともある。(p.42f.)

わたしはいつもとことんまで練習しないで、まだ習得していない難しいテクニックのところを放ったまま舞台で演奏したりしたことが多かった。
好きでもない曲をいくら練習させられても少しも楽しくはなかった。
好きな曲を楽しんで弾く、それは当たり前のようでとても難しい。でも、わたしは純粋に音楽を楽しみたかった。そして、理解してほしいと思った。(p.48)

母は子供だったわたしにいつもドイツの話、ベルリンの話を得意げにしてくれた。だから、ベルリンはわたしにとっては未知の場所というよりは、こころの中で確かに息づいているわたしの街でもあった。(p.50)

日本には、わたしのピアノを評価してくれる人が少ないのもきっかけになった。わたしの演奏に対して、微笑みながら褒めることはあっても、その笑いながらの表情には純粋な評価が感じられなかった。わたしには、それがバカにされてからかわれているのだという表情に映り、それが妄想に変わった。(p.50)

どこの国も役人は同じ。偉い人には優しく、面倒見が良いのに、貧乏人とか弱い立場の人間には威張るだけなのだ。(p.52)

ドイツだろうと、どこだろうと、国籍を問わず、どこにでも意地悪をする人間はいて、外国人と見ればすぐに苛める。本当にどこにでもいる。もちろん、いい人間だっている。一生懸命、人の力になっている人も多いことは確か。
それでも、何度苛めに遭おうが、日本へ帰りたいとは思わなかった。
帰ったら、終わりだと思ってたから。(p.68)

ドイツ大使
「君のピアノはきっとドイツ人のこころの奥に入るだろう。君のピアノには東洋的な哲学性があるから」(p.53)

ひとりで街を歩くたびに、きょろきょろしては、なかなか自分の中に馴染んでこない人や建物が、いくら声をかけても返事をしないまま、無表情に存在している。(p.55)


でも、わたしは人間なのだ。
だから、前を見る。
もたついて、ジタバタして、それでも顔を上げて前を見る。
わたしは人間なんだから。(p.56)

一番つらい、と思ったのは、ドイツ人よりも、日本人に苛められたこと。それも音楽を志す人たちに、だ。


「あれは日本人ではない」
わたしのことをドイツ人に言っている日本人がいるのを知ってびっくり。
ドイツ語でなじられるよりも、はっきりとわかる日本語でわざと聞こえるように悪口を言われたことが、いつまでもこころに突き刺さった。(p.62f.)

あのときは、本当にみじめだった。
仕送りが、あと一週間後というときに、一銭もお金が失くなったときがあった。
中国人夫婦が営んでいる中華ソバ屋
とても、恥ずかしいけれど、優しい人たちだったから、少しでも貸してくれるかもしれない。そう信じていた。バカだった。わたしは人間を知らなすぎたのだ。甘いのね。

今でもあのときの恥ずかしさとみじめさと、貴重な母からのお金だけは忘れることができない。一生忘れないーー。(p.64ff.)

ずいぶんと恋をした。


彼に夢中になっているうちは、すごく楽しかった。
何もかも忘れてしまうぐらいに。それまでの人生の中で、一番気持ちが充実し、なぜか毎日毎日がウキウキして、ちょっとしたことでも本当に輝いて見える。不思議ね。人の気持ちって。
でも、彼のために、それこそ全身全霊を尽くしてもダメだった。


自分が異国の中で孤独から救われて幸せになりたいっていう思いがとても強かったんだと思う。だから、一生懸命になっていた。
でも、幸せになろうとして彼と一緒になっても、本当に幸せにはなれないんだってわかった。そんなことで人は簡単に救われるわけがないのだ。


男の人に熱中しているときは、さんざんだったピアノの音が、「恋はもいういい。あんなイカサマ男なんてもうたくさん!」。そう思って、再び無心に取り組んだら、音がだんだん良くなってきたから不思議だった。(p.69ff.)

www.newsweekjapan.jp